by katorisi
写真は「精霊馬」。故人の霊魂がこの世とあの世を行き来するための乗り物だそうだ。
きゅうりは馬に、ナスは牛に見立てられる。霊魂があの世から早く戻ってくるように馬を、帰るときは遅い牛をという想いがこめられている。
でも帰りのペースを遅くする意味なんてないじゃないか。家を出るタイミングを遅らせるのはわかる。できるだけ長く一緒にいたいのだから。でも家を出てから遅く進む意味はない。スピーディーに戻った方がいいんじゃないか。
そんなことを言って大目玉をくらったことがある。私は世の中のことを何も理解していなかったのだ。
論理というのは厄介なもので、通れば正しいと思わせる陥穽がある。一歩家を出たら速くとも遅くとも同じという幼稚な結論付けは、その言葉以上の何ものも生まない。
人は子を産み死者をおくる。連綿とつらなる生に明快な意味など求めてどうしよう。想いを表す儀式に論理的帰結を求めてどうしよう。
お盆で思い出すのは祖父母の家の薄暗い和室だ。夏の明るい太陽を遮断した深い闇はどこか不気味だった。だがそれでいて、懐かしいような優しいようなふっくらとした柔らかさがあった。全ての物事は曖昧な輪郭を持ち、多義と矛盾を穏やかに内包していた。
四隅までも照らす輝く光も明朗な論理も却って目を眩ませるものだ。大切なものはいつだって目に見えない。
東京都下の自宅は今日、亡き父と兄を家に迎える。目を閉じぼんやりとした慈しみに身を委ねられるくらいには、私は大人になったと思う。
東京都下の自宅は今日、亡き父と兄を家に迎える。目を閉じぼんやりとした慈しみに身を委ねられるくらいには、私は大人になったと思う。
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